神奈川総合高校課題研究 1999.7.27
「Mr.Children 〜桜井和寿とその感性と苦悩〜」
まえがき
Mr.Childrenという男性4人組のバンドをご存知でしょうか?1994年閃光のように現れ、彼らの独特なサウンドは日本中の若者の心をつかみ、
その人気といえば、社会現象にまで発展するほどのものになりました。しかしながら、彼らの人気の裏側には多くの苦労が隠れていたのです。
有名になった事は良いものの、彼らのプライバシーは侵害され、名プロデューサーがついていた事もあって、「小林武史の有能な音楽マシーン」
という侮蔑に値する言葉が投げかけられたり、その人気ゆえにただの人集めとしか思えないようなイベントに参加させられて、もう踊らされている
としか言いようがない状況で、また、異常とも言えるこの人気の中、いったい彼らはどんな思いを抱き音楽活動を続けていったのでしょうか?
私は1ファンとしてではなく、一人の研究者としてその精神状態を深く追ってみることにしました。
第一部 Mr.Children History
・出逢い
・プロへの決心
・変革
・小林武史との出会い
・ミスチル旋風
・活動休止、そして復活に至るまで
第二部 桜井和寿の感性
・Mr.Children以前の音楽
・『ミスチル現象』が桜井和寿にもたらした苦悩
・桜井和寿が表現したかったもの
・Mr.Childrenの行く先
Mr.Children History
《出逢い》
仲が良い事で有名なMr.Childrenの四人は、高校時代に出会うことになる。桜井和寿、田原健一、中川敬輔はそれぞれ理由は違うものの、
私立の名門「関東高校」に入学するがまだ互いの存在は知らなかった。鈴木英哉はというと彼らとは別に「昭和第一高校」に進学していた。
桜井は、以前から父の教えである「男なら生きたいように生きろ。そのためには何か一つ武器を持て。独自性を持った生き方をしろ。」のもとに
自分の将来を大好きな音楽をやること、つまりミュージシャンになることを決めていた。高校について桜井はこう言っている。「僕はずっと音楽が
やりたくて、軽音楽部のある高校を探していたら、たまたまこの高校を見つけたんですよ。仲の良い友達も結構行くみたいだし、じゃあそこに
しようって。今考えたらなんて単純なんだ!って思いますけどね。」〔雑誌 Switch〕この言葉に象徴されるように、まさに彼にとって高校時代は
ひたすら音楽をやっていた時間だった。しかし、音楽をやるにあたっていろいろ苦労するはめになる。入学してすぐに軽音楽部に入ったものの、
前々から学校内部や近所の騒音に対する苦情やブラスバンド部との活動場所のブッキングなどの様々な問題を抱えていたのにも関わらず、
どうにかやっていたのだが、それに顧問の転勤、部員の減少が重なり、軽音楽部はあえなく『同好会』に格下げとなってしまう。正規の部活として
認められないとなると、今まで活動場所として割り当てられていた部屋が使えなくなってしまい、大きな音を出す軽音楽部は活動がほとんど
制限され、ほとんど存続するのが難しい状況であった。しかし、そんな逆境に桜井はめげなかった。正規の部活として認められている
ブラスバンド部が終わり部員が誰もいなくなるまで待ち、それからその部屋で練習をやり続けた。ブラスバンド部が終わってから練習を始めるので、
陽が落ちてからやり始めるのがほとんどで、近所迷惑などもあり、自由にまでとはいかなかったが、軽音楽「同好会」はぎりぎりのところで活動を
存続していった。すこし時はもどり入学してまもないある日の放課後、桜井は真っ黒に日に焼けた青年に声をかけられる。それが、田原健一
であった。少年時代から野球をやっていた田原は、持ち前の運動神経と身体能力でかなりの名手だったらしく、シニアリーグでも渋い打撃と
堅実な守備で将来はプロ野球選手も夢ではないほどであったという。高校ももちろん野球でも有名であったこの高校に入学する。
(じつは、関東高校は第一希望の高校ではなかった。彼は、最初は都立高を狙っていたが受験に失敗し併願校であるこの高校に入学する。
もしも彼が都立高に受かっていたら……いったいMr.Childrenのギターには誰が座っていたのか、少し興味深いところである。)
しかし、関東高校の野球部は上下関係が厳しく、半年間ボール拾いしかやらせてもらえず、またちょっと事で少しでも生意気な口をたたけば
先輩に即殴られるような名門とは言えど、ひどい状況であったらしい。野球部らしい練習が出来ないうえ、この状況を見た一年の田原は野球への
情熱を失いかけていた。そんな最中ギターには中学時代から少し興味が合った田原は毎日ギターを抱えていた桜井に声をかける。野球一筋だと
思っていた青年に声をかけられてさぞかし桜井も驚いたことだろう。「それって、テレキャスターって言うギターなの?」「え?ああ、これは、ストラト
って言うギターなんだ。」こんな何気ない会話から、2人は親交を深めていくのだった。そして、野球部に嫌気がさしている事を桜井に打ち明けると、
桜井は「じゃあ、俺と一緒にバンドを組まないか?音楽をやろうよ。」と軽音部に田原を誘う。(実はここには二説が存在する。普通にバンドに
誘うというのが一般の通説なのだが、一部のファンブックには「バットをギターに持ち替えろ。」という名ゼリフつきで書かれている。ミスチル伝説を
作り上げるための嘘話であると思われるが、桜井が言い兼ねないセリフなのが、少し怖いところである。)
桜井の一言で野球部を辞めた田原は、ギター初心者だったものの桜井の熱心な指導でみるみるうちに上達していく。田原は昔からの幼馴染だった
中川をベースに誘い、ドラムが出来る同級生とともにバンド『ウォールズ』を結成し、バンドという形式で音楽活動を始めた。まだ、軽音楽「部」の
頃の話である。さて、ここで中川について少し触れておこう。関東高校に入学した中川だったが、もともと高校に入る気が無くもともとは仲の良い
田原の説得によって決めた高校進学だったために学校には全く行かないで「スエヒロ5」というファミリーレストランでバイトに明け暮れている
毎日だった。(このバイト先では長く勤めていたので一年交代で代わっていく正社員より店舗の事を把握し「わからないことがあったら中川に聞け。」
といろいろと重宝がられる存在だったようだ。しかし、意味の無い高校進学といえど桜井達に出会うキッカケになったことは確かである。)
さて、やがて出会う鈴木英哉はまだ、お互い知る由も無かった……
《プロへの決心》
学校内からやがてバンドハウスに活動をうつし始めていた高校2年のある日桜井は、風邪を引いたわけでもないのにがらがら声で登校して来る。
友人達がその理由を聞くと自分の声が女みたいに高くて嫌だったらしく、浜田省吾や、桑田圭祐のような骨太で哀愁漂うかすれた声になりたくて
昨日の夜、お酒を飲んでは大声で叫び散らし、のどが渇けばまたお酒という方法で喉をつぶそうとしたらしい。(桜井が挙げた桑田圭祐も自分で
喉をつぶした事は有名である。)高校に入学したときからプロへの憧れを持っていた桜井はいったいどんな声が支持され、どうしたらそれを自分が
身に付けられるのかを緻密に考えた結果の行動だろう。その頃学校側も桜井達がバンドハウスによく出入りしていることを知り、毎日学校に来ては
居眠りが多くなった彼らに「遅刻居眠りはしても良いが学校だけは休むな。」と彼らの熱意を感じてか、肯定的とは言えないが容認の姿勢を
示していたようである。やがて、受験が見えてくる高校3年。受験勉強にいそしむ級友を見ながら桜井はせっせと作曲に励んでいた。そして、
外でのライブ活動に明け暮れているうちに卒業が近づいてきた。プロになりたい一心でバンド活動を行ってきた『ウォールズ』であったがここで
思わぬ困難にぶち当たってしまう。桜井たちのバンドは級友であるドラマーがバンドメンバーから抜けてしまうのである。「プロでやっていくため
には、親しい友達の中で結束の強いバンドでなければいけない。」と心に決めていた桜井は周りの友人にドラマーがいないか訪ねまわったところ、
以前田原や中川の中学時代の同級生だった、鈴木英哉に白羽の矢を立てた。田原が桜井に「本当にドラム命という奴だ。」と鈴木の印象を話すと
桜井は快諾し、そこで、初めて桜井は鈴木と出会う機会がもたれたのである。鈴木英哉は、田原、中川と同じ中学校にいながらも交流が無く彼らと
は違う「昭和第一高校」に入学していた。鈴木は中学校の頃からドラムをやっており、文化祭で発表したこともある鈴木は高校でライブハウスで
活動を主としたバンドに加入する。そのバンドは彼が高校2年を終わるころには新宿の有名ライブハウスに出られるほどの実力になるほどまでに
なっていた。そのとき、対バン(同じライブに出場するバンド)でボーカルをしていた人に話し掛けられ、その人ともバンドを組むことになる。その
当時のことを鈴木に聞くと「とにかくドラムが叩きたくって。バンドを組んだほうが独りでやるよりずっと上手になれるんですよ。」という具合に
バンドに誘われたら気軽にOKしている状況だった。桜井たちとの出逢いもそのひとつに過ぎなかったのかもしれない。彼は桜井たちの最初の
印象についてこう話している。「中学のとき顔見知りだった田原に誘われて『ウォールズ』に加入して、桜井達がやっている音を聞くと、驚くことに
オリジナルをやってたんですよ。それにとってもメロディーがよくて、「このバンドならいけるんじゃないかぁ?」と思ってこの桜井たちのバンドに
はまっていっちゃって。いやぁー本当に今まで彼らとやってきてよかったすよー(笑)。」〔雑誌 Rockin' on JAPAN〕桜井も鈴木の事を気に入り、
ここで、はじめてMr.Childrenのメンバーが揃い、また桜井もこのバンドでずっとやっていく事を決意したのであった。正式なメンバーがそろった
この頃から桜井はレコード会社等で開催される様々なバンドコンテストに応募し始める。しかし、桜井のメロディアスな曲はいつも高い評価を
得るのだが、いつも「曲は良いんだけど、演奏がちょっとねぇ。」と言われ、ことごとくバンドコンテストに落ちている状況であった。(桜井達が落ちた
バンドコンテストの中には『THE BOOM』や、『L⇔R』などが最優秀賞として表彰されていたりもしているので、運が悪かっただけかも知れない。)
当時から、桜井の音楽的センスは定評がありレコード会社数社からはソロデビューの話が持ちかけられていた。桜井はスカウトに「どうして
そういう事を言うんですか?僕たちは今まで4人でやってきて、これからもそうするつもりです。僕が個人的に認められるのはうれしいですが、
自分がやっているバンドを解散させてまでプロでやる気はありませんし、そんな勝手な考えを持っているあなた方にももう会う気はありません。」と
話し、強い警戒心と怒りの態度を示した。そして、「絶対に俺たちだけでやろう。」とメンバーの前で宣言し、Mr.Childrenの絆はより深くなって
いくのだった。そして、彼らに大きなターニングポイントが訪れる。
《変革》
Mr.Childrenがインディーズ(メジャーデビューしておらず、バンドハウスを中心として活動するバンドの事。ほとんどのトップバンドはここから
スタートしている。)で活躍していたころのバンド名は『ウォールズ』だった。バンド名が今のMr.Childrenになったのは、1989年1月1日のこと
であった。鈴木英哉を加え、活動の場を広めようと渋谷にある有名バンドハウス『ラ・ママ』のバンドオーディションに参加する。(かなり有名な
バンドハウスになると、その名実ともにいい音楽、いいバンドを出さなければならないために、腕もそれなりの要求をされるのである)
常に演奏が問題とされてきた桜井達であったが、オーディションに見事合格し、『ラ・ママ』での活動が始まったのであった。だが、しかし今の
メンバーになり1年ほど活動していくと、桜井達の胸中に漠然とした不安が生じるようになってきた。月に3、4回ライブをこなし、固定客も少しずつ
増えてきた頃であった。「俺達の音楽活動というのはいったいどういうものなんだろう?」その疑問を解決するべく、メンバーと話し合った結果、
一回原点に帰りもう一度自分達の音楽について考えてみようという結論に達し、その日から3ヶ月間お互いに逢わないように音楽活動を休止する
のだった。それぞれのメンバーが音楽から距離を置いた生活から3ヶ月が過ぎた1989年1月1日、メンバーは近所のファミリーレストランに
集まった。「これからは、自分達のメッセージを素直に託した音楽をやろう。」という桜井の台詞にメンバーは賛成した。自分達の目指す音楽性の
方向も決まり、新しくスタートするという意味で、これまでのバンド名を変える必要があるのではないかという提案がなされ、それぞれは思い思いに
ナプキンを取り、新しいバンド名の名前を書き出し始めた。そしてメンバーの一人が『Children』という単語を書き記した。メンバー達はこのときの
ことを鮮明に覚えている。雑誌のインタビューでバンド名について聞かれたメンバーは「新しいバンド名を考えているとき、ふと誰かがナプキンに
『Children』という単語を書き出したんですよ。『Children』っていう単語は僕達がすき好んで読んでいる本とかによく出てくるんですよね。とっても
優しくて無邪気な響きがするんですよ。みんなその言葉が気に入って他にいろいろと候補にあがった言葉はあったんですけど、結局のところ
それに決まっちゃいまして。でも、『Children』だけだと、どうも幼く感じられるし、素直じゃないから(笑)少しひねろうと思って、反対の意味を持つ
冠詞の『Mr』をつけて、『Mr.Children』に決まったんですよ。」〔雑誌 不明〕そうして、これから親しまれることとなるバンド名は決定した。自分達を
見直す3ヶ月が過ぎ新しくバンド名も決まり、『Mr.Children』として再び活動を開始したのが翌月の2月からであった。今度は『Mr.Children』
として再び『ラ・ママ』のオーディションに参加する。再オーディション当日、バンドマスター(ライブハウスのオーナーのような人)不在で、代理で
『ラ・ママ』のスタッフが審査することになった。後日バンドマスターが彼らの印象を聞くと誰もが好印象を抱いており、特にメロディーを推す人が
多かったという。バンドマスターはスタッフの言葉を信じ、合格を決定した。Mr.Childrenとして『ラ・ママ』で初めて演奏したのはオーディション合格
の2ヶ月後であった。彼らのステージを実際に目にしたバンドマスターは彼らのもつ独特のサウンドが気に入りこう表現している。「彼らのサウンドは
まずメロディーが良いんですよ。『シティボーイズ』を地でいくような都会的で洗練された独特の音感を持っていましたね。でも、洗練されているせいか
他の可能性を感じていたバンドより存在感は薄く感じました。実際彼らが持ってきてくれたデモテープはよく覚えていないんですよ。でも、プロとして
やっていくために絶対に必要な感性をもっていました。今でこそ派手なステージングなどで多くのファンを魅了していますが、当時の彼らには問題が
山積みでしたよ。演奏やステージング、MCなどまだまだ、未熟な面がありました。MCやステージングは続けていけば時間が解決してくれる。
演奏だってライブなど場数を踏めばどんどん向上していきます。修行さえすればかなり良いところまでいけると確信していたバンドでしたね。
ダイヤの原石として一番光るものを持っていたと思います。」バンドマスターが言う通り彼らは少しずつではあるが固定ファン層が増え始め、
1年後には大阪・名古屋ツアーを成功させそのすぐ後に『ラ・ママ』でのワンマンライブ(対バン形式でライブを行うのではなく、たった1バンドで
ライブを行うこと。固定客がライブハウス定員の2/3人以上いないとやらせてもらえないし、それどころか自分達に大きな損出となる。)
を行い、Mr.Childrenの人気は少しずつ定着していくのだった。辛くもバンドブームの最中であった音楽業界。レコード会社は売れるバンドは
いないかどこも血眼で探している状態だった。Mr.Childrenも例外ではなく様々なレコード会社からメジャーデビューの話が持ちかけられたが、
彼らはそう簡単にはOKを出さなかった。順調にライブをこなし、音楽活動も波に乗ってきていた頃である。その中でも常に「自分達がやろうと
している音楽は何なのか?」という考えが彼らの脳裏にはあった。そして、その答えをより確実なものにするために彼らは再び3ヶ月間の休暇を
取ることにする。その当時、彼らが好んで演奏していた音楽というのは、U2やエアロ・スミスなどハードロック主体で、スタイルもまさしく
ハードロッカーであった。(桜井は金髪にしたこともあるらしい。)しかし、この3ヶ月間の活動休止によりMr.Childrenは大きな変革を迎えるので
ある。ある日、桜井がバイト中の車のなかでたまたま『京都慕情』を耳にする。その歌はあまりにも素直に桜井の心に染みていった。この歌こそが
彼らがメロディー主体のバンドへの転身のきっかけとなる曲だった。桜井は当時の状況を思い出しながらこう話している。「車の中で『京都慕情』を
聞いたとき、それまでハードロックよりだった僕達の音楽の矛盾点に気がついたんですよ。その歌のメロディーがとっても良くて、今までロック一本に
絞ってやっていこうと勝手に思い込んでいた自分の目からうろこが落ちたような衝撃に襲われましたね。当時はちょっと高望みしていたと思います。
この曲を聞いて、自分の中でロックという枠にとらわれず、メッセージ性を持ったもっと広いメロディー売れる音で勝負していこうと確信したんです
よ。」〔単行本 FANBOOK〕こうして、Mr.Childrenの軸となるメロディアスなサウンドは『京都慕情』によって開かれたのである。そして、桜井は
久々に集まったメンバーにその話をするとメンバーは快く桜井の意見に賛同し、Mr.Childrenはメロディアスなサウンドで勝負するバンドとして
生まれ変わったのだった。こうして、再スタートを切ったMr.Childrenであったが、彼らのステージを久々に見た『ラ・ママ』のスタッフはメンバーの
思いとは逆に不安感を抱いていた。「それまでの彼らの存在感をアピールしていた都会的な感性が感じられなくなって、いったい何を見せたいのか、
何を聞かせたいのかがはっきりしなくなってしまった。」その他にもレコード会社からも同様の酷評が飛び、さらにバンドマスターに音楽活動を
辞めるべきではないかという提案が出されるなか、一社だけ彼らの変化に気づいていたレコード会社があった。その会社こそが『トイズファクトリー』
である。精神的に追い詰められた状況にあったMr.Childrenは『トイズファクトリー』関係者の「これまで君達がやってきた音楽よりずっと独自性が
出てきたと思う。音作りに関して一皮向けたって感じかな。絶対にこれはいけるよ。」というゴーサインのコメントに勇気づけられ、ひそかに彼らは
「メジャーデビューするならこの会社だろう。」と心に決めた。そして、新しい音楽の方向性になってからの初のワンマンライブを『ラ・ママ』で開き、
過去最高動員数を記録するのだった。「彼らは急に盛り上がったわけでもなく、徐々に人気が出てきたんですよ。最初のうちは仲の良い友達が
見にに来てくれている程度だったんですが、当時から爽やかでルックスのよかった桜井くんは女の子に人気がありましてね、それにつられてか
彼らの音楽を聞きに来る人が増えて、固定客も増え始めて。とても順調に事を進めていましたね。」バンドマスターは回想してこう答えている。
2度目のワンマンライブもチケットが即日完売という状況となり、課題とされてきたステージングやMCなども要領を得始めてきて桜井達にも
プロ意識のようなものが完全に芽生え、少しずつミュージシャンの階段を上り始めていた。『トイズファクトリー』と契約する直前でさえも桜井達は
「自分達の音楽を支えていくサウンドはいったいなんだろうか?」と常に考えていた。そして自分達の音楽を見つめ直すべく
『JUN SKY WALKER(S)』のツアーに参加する。Mr.Childrenのメジャーデビューのスタートは『JUN SKY WALKERS』の
前座バンドとしてであった。ツアーで共に作曲を行った寺岡呼人と出会い、また自分達のサウンドに確信を得た桜井達は『トイズファクトリー』と
契約し、デビューアルバム作成の準備にとりかかる。その中でMr.Childrenは小林武史と出会うのであった。
《小林武史との出会い》
(かのGLAYがメジャーバンドとしてデビューするのにはYOSHIKIがかかわったのは有名な話だろう。Mr.Childrenのメジャーデビューもまた
敏腕プロデューサーの小林武史が関わっていた。)
Mr.Childrenと小林武史が初めて出会ったのは、デビューアルバムである『Everything』の時であった。小林武史は彼らに出会う以前から
『サザンオールスターズ』や小泉今日子などのプロデュースを多く手がけ、既に敏腕プロデューサーとして活躍していた。小林は彼らの音楽を
聞いて「育て方によってはかなりの線までいけるバンドになる。このバンドは私がプロデュースしたい。」と語り、立て続けに「これからの音楽業界は
欧米流に『A&R(レコード会社の歌手及び曲目)』と『音楽プロデューサー』の共同作業になる。作品リリースに対し、宣伝の予算まで担当する
人間と、アーティストの音楽性を伸ばす『音楽プロデューサー』の役割を完全に引き離して考える必要がある。」と持論を披露し、『トイズファクトリー』
は彼らのプロデューサとして小林武史を迎えるのであった。そして、小林武史に出会うことによって、桜井達は今まで順調に進んできた音楽の道で
苦労を強いられるのである。インディーズ時代、セルフプロデュースでとてもよい評価を得ていたMr.Childrenだったが、プロの世界はそう甘くは
なかった。アルバム用の曲を完成させた桜井は、自信を持って小林にもとへ持っていった。しかし、小林の評価は冷たいものだった。「こんなに
いい曲があって、サビが素晴らしいのに、この詞では活かしきれてないよ。もっと煮詰めればどんどんよくなっていくと思うからがんばってよ。」その
言葉は、今までの桜井達の音楽活動を否定されることと同じくらい衝撃的な一言だった。「自分が完璧だと思ってもっていったものが簡単に
返されるなんて。」そこから桜井のミュージシャンとしての苦悩の日々が始まるのである。自分自身のプライドや自信をすべて否定された桜井は
初めて音楽をつまらなく感じる。だが、しかしそれは彼の思想を変えていくきっかけでもあった。「B級の自己表現で終わらせてはだめなんだ。
自己表現を含みながらでも、聞いてくれる人のことを考えてA級の商品を作らなければ。」改めて桜井はプロ意識にかられることとなった。桜井は
その時のことをこう話している「1stアルバムの時は本当に楽しくなかったですね。何回もダメ出しされて、その度に詞を書き換えたり、コード進行を
変えてみたり。『君がいた夏』なんて何回もダメ出しをくらった曲で、最終的には歌詞の一行を手直しされちゃいました。すごく悔しかったんですけど、
自分はそれだけ足りないんだと思って、「もっともっと」って思ってました。」(雑誌 BREaTH)そして、幾度にも及ぶ小林との話し合いを重ね、彼らの
デビューアルバムは完成するのである(それは、まさしくEverything(=いっぱいいっぱい)だったのかもしれない)。
今でこそ、『トイズファクトリー』は有数のレコード会社にまで大きくなったが、Mr.Childrenがデビューした頃は弱小レコード会社だった。そのため
桜井達は自分達のCDを売るために大きな広告手段は使えず、自分達の足でプロモーション活動を行うのことになる。桜井達は大都市といわれる
ほとんどの場所をまわり、プロモーションに精を出した。そして、努力の甲斐もあり、あの状況下で1stアルバムはオリコン初登場第25位に
ランキングされるのであった。(よくよく考えてみると、もしかしたらトイズファクトリーは生き残りの為にMr.Childrenを評価し、獲得したのかも
しれない。)
その後も、2ndアルバム『KIND OF LOVE』がヒットし関係者は「このままのペースでいけば、次にはブレイクするよ。」と期待していた。そして
期待通り3rdシングルである『Replay』が初めて企業タイアップ曲として、お茶の間に流れ、『Replay』を収録した3rdアルバム『versus』も
オリコン初登場第3位を記録し、このアルバムを携えた全国ツアーのチケットも即日完売と、Mr.Childrenはトップミュージシャンへの道を着々と
一歩ずつ進んでいった。そして超ロングランヒットとなった『CROSS ROAD』(TBS系ドラマ『同窓会』主題歌)が売り出される。桜井はこの曲が
出来た時、「やっと100万枚売れる曲が出来た。」と一言いったという。彼の言葉どおり、オリコンでTOP3には入れなかったものの、45週
連続チャート・インという演歌の様にしぶとく残りつづけ、ついには累計売上枚数が100万枚に達したのである。(「CDを100万枚売る」というのは、
桜井の人生目標の1つだった。)
《ミスチル旋風》
大ヒットシングル『CROSS ROAD』から半年後、1994年6月『innocent world』が発売され、100万枚を軽々と超える大ヒットとなる。この
CDシングルこそがMr.Children大ブレイクのきっかけであるが、桜井の音楽に対する考え方を変える作品でもあった。小林は、この曲をつくるに
あたって桜井にこう助言している。「とても曲は素晴らしいと思う。問題は詞の世界だ。桜井の中の道化の部分も含め、桜井じゃなきゃ変えない、
今、桜井和寿が歌うからこそ意味があるようなそうした世界まで、気持ちを開いていく詞ではないとダメだ。」桜井はこう小林に言われ、何か自分が
解き放たれた感じを受けた。そして、自分をよりピュアに持っていくことによって芸術と商品の高い値での中間点をいくような詞の世界観を表現する
事に成功する。やがて、それが新たなMr.Childrenを呼び覚ましたことを桜井はまだ気づかなかった。『innocent world』発売から3ヶ月後、
4thアルバム『Atomic heart』が立て続けにリリースされる。このアルバムのコンセプトについてこういう話し合いがもたれたという。
「『innocent world』によって開かれた世界観を踏襲し、もっとMr.Childrenの新しい面を出していこう。曲順はアルバムの前半は買ってくれた
人が「買って良かったなー。」と思ってもらえるような曲を並べ、後半には実験的ともいえるような楽曲を並べよう。」(実際に前述の2枚のヒット
シングルは前半に収録されているし、今まで彼らがあまり使用していなかったエフェクトを多用している曲は後半に多く収録されている。)
そして発売されたこのアルバムは2週連続第一位を記録し、それから長い間TOP30食い込みつづけ、Mr.Childrenの名前を全国に轟かせ、
やがて『ミスチル現象』と言われる社会現象を巻き起こすのだった。さらに、この2枚のCDは彼らを日本の音楽シーンのトップに導き、レコード大賞
受賞というおまけまでもたらしてくれたのである。関係者の中でレコード大賞はいろいろと裏で受賞曲の決定に取り引きがあったり、レコードの
売上げや実際の人気面とは少し違った角度から選出することが多く、物議を醸し出すことの多い賞で有名だった。『トイズファクトリー』や
Mr.Childrenは裏工作をするほどダーティな部分がなく、たとえ人気があったとしても受賞されないと思われていたが、あまりにも優秀で、桁外れの
セールスをあげたMr.Childrenに受賞させざるをえなかった。しかも、受賞されないと自分達自身でわかっていたMr.Childrenはその頃には
プロモーション撮影の為に日本国内にはおらず、授賞式に欠席という前代未聞の授賞となったのである(欠席で大賞を受賞するなど初の事だっ
た)。
そして、6thシングル『Tomorrow never knows』(フジテレビ系ドラマ『若者のすべて』主題歌)で名実ともにその人気を確実なものにしたの
だった。人気もピークに達し始めていた頃、桜井は5歳年上の女性と結婚していたことが週刊誌にスクープされる。(10代〜20代に圧倒的な
人気を誇っていたMr.Childrenであったが、女性ファンの桜井の人気はすさまじいものがあった。ほとんどの女性ファンがその結婚相手に
嫉妬したことであろう。)
そして、その後に自分の受け持っているラジオ番組で改めて結婚報告をする。結婚に関して桜井は「このことを悲しむ人がいるかもしれませんが
どうかわかって下さい。僕も音楽をとれば普通の人間で、他の人と何も違わない生活をしているし、平凡な生活を送っているからこそ、みなさんに
共感していただけるような作品を作れるわけだし、結婚したからといってそのスタンスは変わる事はないし、別に曲が作れなくなるわけでは
ありません。」〔単行本 Mr.Childrenの世界〕と答え、嫉妬していたファンを納得させる。その他にもエイズ撲滅運動『AAA』に参加し、
『笑っていいとも』にも出演、さらに週刊誌が彼らのスクープを血眼で追っていた1994年はまさにミスチルに始まりミスチルに終わるのだった。
新年が明け、彼らは自分達のドキュメントフィルム『【es】』を発表する。興行収入も好調を記録しまたそのテーマ曲である
『【es】〜Theme of es〜』もミリオンセラーとなり、Mr.Childrenは当時のミュージックシーンを完全に制覇したのであった。自分達の音楽が
評価され、人気であるにもかかわらず、桜井は苦悩との戦いを続けていた。「自分達の音楽が売れ、目標である100万枚を越えることが難なく
出来るようになった。しかし、売れることが自分達の音楽を愛されていることになるのだろうか?」その疑問は後の音楽活動休止へと影を引きずる
のであった。
《活動休止 そして復活に至るまで》
次々とヒットシングルを飛ばし、快調に進んでいるように見えたMr.Childrenだったが、1997年3月に活動休止を発表する。その理由には
様々な憶測が飛んだ。「小林武史との仲がうまく行かなくなった。」「不倫問題がおさまるまで謹慎する」「才能が枯れた」中には「ミスチル解散説」を
唱える雑誌もあった。だが、どの理由も決定的な確証がなく、ちゃんとした説明もないままに3月27日、28日の東京ドームのコンサートを最後に
彼らは活動を休止する。しかし、結局のところただスケジュール的に休みが入っていただけであってそれほど謎を巻き起こすほどでもなかったのが
真相であるが、この休みにおいて彼らにとって節目となる出来事が多く起こるのである。休みは再び彼らに新たな力と価値観を生み出したので
あった。一切の主だったメディアに関する仕事を休めば、盛衰の激しい音楽業界の中では自然に忘れられていくものである。このことはほとんどの
ミュージシャンが不安を抱くだろう。しかし、トップミュージシャンとして常に一挙手一投足が注目され演じることを余儀なくされていた桜井にとって
忘れられることはぜんぜん苦痛に感じられなかったという。さらに、追われる事が少なくなり、妻との離婚などの自分が今まであやふやにしてきた
部分をゆっくりと解決する(一部においてはまだ完全ではない)ことが出来、いつか自立するためのセルフプロデュ−ス作業も自分に向いていない
ことを痛感し、改めて小林武史の偉大さを思い知ったりした桜井であった。そして、復活するまでには自分達の音楽に専念できる体勢が形作られて
いた。(というか、専念できる体勢になるまで休んでいた。)復活のための布石として1998年2月『ニシエヒガシエ』を発売、そして同年10月21日
『終わりなき旅』を発売、今まで休止していたブランクをまったく感じさせない音楽の多彩さ、Mr.Childrenは完全に復活を遂げるのであった。
さらに1999年1月『光の射すほうへ』同年2月アルバム『DISCOVERY』を発売し、彼らは再び音楽シーンに飛び込んだのであった。
桜井和寿という人間の感性
《ミスターチルドレン以前の音楽》
1994年の一時代を彩ったバンド、Mr.Children。彼らの音楽が新しく、なおかつ魅力的だったと考えても、それだけで一時代を築けるものなの
であろうか?多くのミュージシャンは独特の要素を持っているからこそ今の音楽業界に居残っていられるわけで、そう簡単にはもぐりこめる世界
ではない。誰かの二番煎じだったり、有名プロデューサーのお付きなら、時代の流れに乗って簡単にヒットを飛ばすことが出来るだろう。だが、
しかし、長く愛されるとなったら話は別で、そこから自分のアイデンティティーたる感性を出して長く売れることはまず難しいだろうし、また有名
プロデューサーの兵隊の駒を過ぎずに終わってしまう事も少なくないだろう。音楽を聞く人々の層は年々耳を肥やし始めている。メディア操作等を
除き、きっと今の時代なら、一時しのぎのような戦略はかならずといっていいほど通用しないであろう。そして、その激戦とも言える音楽業界を
形作ったのはMr.Childrenが深く関係しているのであった。彼らのプロデューサーである小林武史がこんな言葉を残している。「感動という的が
あって、今のトップアーティスト達はうまく射抜き続けているから点在しているのである。しかし、Mr.Childrenというバンドはごくたまにその的の
ど真ん中を射抜いてしまうのである。」〔ツアーパンフレット〕この言葉はとらえかたによっては様々に取れるであろうがその一説として、こういう見方
がある。それを説明するには少し音楽の流れを知ってもらう必要がある。もともと音楽は芸術の一端であって、音楽には身を投じた多くの人々の
感性を感じとることが出来るだろう。クラシックといわれる古典音楽はまさにその完成度といったら芸術としかいいようがない。が、しかし時代が
進むにつれて、芸術の表現方法やまた存在価値も変わり始め、今の時代となっては音楽という大きな枠の中に、あまりにも多くの表現方法が
ひしめき合い、またその価値も芸術とは程遠い商業をベースとした形に成り下がっているといっても言い過ぎではないだろう。少し時代は
さかのぼるが1970年代有名アーティスト『CHAGE&ASKA』はグループサウンズ、演歌が音楽業界の主流の中で『演歌フォーク』という
新たなジャンルを開拓し、今に至るほどの人気と実力を得たのである。初めてそこで2属性のおおよその中間点を射る音楽家が登場したので
あった。その後も、『ロックの神様』矢沢永吉や、サザンオールスターズ、大滝詠一など今まで日本の音楽に存在しえなかった要素を持ちこんだ
人間達が今のジャパニーズポップの礎を築いていった。そして1980年代音楽は新たな局面を迎える。アイドルブームが全盛となり、彼女らの
ノベルティーグッズや関連商品と同じ、つまりは今までの芸術、いや自己表現の要素としての音楽は商品としてそのアイドルというブランドの低俗の
従者のひとつとして扱われるようになってしまったのである。だが、その時代の中で再び音楽の芸術的価値を上げる人間が現れた。それが、
『小室哲哉』である。彼が出てきた当時は、日本では彼ほどにシンセサイザーを扱える若い人間はいなかったという。そして、ほとんどが
生音(人間が直に演奏する形態)で演奏されていた時代に、プログラムという新しい形式を取り入れ、それによって日本の音楽は音的彩色の幅を
ぐんと広げたのである。それと同時期に現れたのが『BOφWY』であり、彼らもまたバンドサウンドという形態を確立させ、後のバンドブームを
巻き起こす始点となったミュージシャンである。多くの若者に支持されカリスマ性を持った『TMN』や『BOφWY』は、おそらくこれから説明する
トップアーティストの宿命に疲れ、またそれぞれの目指す道の違いにより解散してしまうが、彼らが残していったものは音楽業界のこれからにとって
大きな財産となった。音楽業界は少しの間洗練された音楽を待つまでの波乱を含んだ時代を迎える。音楽の全体的な試行錯誤が繰り返される中、
多くのバンドがその波に飲まれ、栄枯盛衰を繰り返し消えていった。辛くもバブル真っ只中の中の出来事であり、レコード会社もバンドや
ソロシンガーを雨後の竹の子のように生み出している状況だった。しかしバブルがはじけ、音楽業界はその波の影響をモロに受けてしまう。
不景気と叫ばれる中で、音楽業界に確実に生き残るためには発売する曲をヒットさせる必要がある。そして、作りこむプロデュースという作業が
生まれ、前出した『小室哲哉』や『小林武史』など名プロデューサーといわれる人物も現れ始めていたそんな時代にMr.Childrenは音楽業界に
身を投じたのであった。彼らが近現代の音楽に多大な影響を与えた点として一番大きいことは、ミュージシャンとして音楽を商品化してしまったこと
ではないだろうか?高い位置で、芸術と商品のど真ん中を射てしまった彼らの音楽は、専門的にいえば、巧みなコード進行はまさに芸術的
であるし、桜井の書く詞は我々の心をつかんだら離さないような、文学的な世界観を持っているにもかかわらず、それほど音楽に詳しくないもの
でも理解できるように咀嚼され作られている所などはまさに一部に偏らない商品価値として十分なものを持っているだろう。昔の音楽と比べると
そこが大きな違いで、今までの曲ならばB級の商品や自己表現ひとつのみに終わっていたところを彼らはその二つを併せ持ち、小林武史という
名プロデューサーと彼らの持っていた音楽性が後押しし、A級の商品価値を持ち、なおかつ自分達のメッセージを余すところなく伝えられる音楽を
作り出したのであった。その高い音楽性は、社会現象にも象徴されるように多くの人々を魅了したが、同時に自ら自分達の首を締めることに
繋がるのであった。
《『ミスチル現象』が桜井和寿にもたらした苦悩》
1994年、日本全土に『ミスチル現象』が吹き荒れた。それはまさしく電光石火のごとく日本列島を駆け抜け、Mr.Childrenはトップ
ミュージシャンの仲間入りを果たした。彼らの音楽はお茶の間に流れ続け、音楽シーンを制覇したといっても過言ではない状況であった。事実、
彼らの大ブレイクのきっかけとなるCD『innocent world』は15週連続(3ヶ月間連続)トップ10入りを果たし、アルバム『Atomic heart』は
2週連続第一位のあと長い間トップ30に残りつづけ、レコード大賞受賞もあって発売29週目に再び第一位にランクインするというのは彼ら以外
記録していない快挙なのである。だが、しかしその栄光は彼らに有益ばかりをもたらしたのではなかった。有名になった人間は知名度の代わりに
プライバシーを失うもので、彼らもまた例外ではなかった。彼らの住所は一部のFANBOOKに暴露され、また桜井の結婚生活や生い立ちさえも
面白おかしく週刊誌に書かれ、さらに熱狂的なファン達による出待ち入り待ち(メンバーがコンサート会場に入るのを待ち、その姿を拝む行為。
出待ちはその逆。おもに車などの搬入、移動作業のため、大変危険な行為である。)や宿泊地、自宅での待ち伏せ。そんな熱狂的な現象の中で
桜井はインタビューにこう答えている。「どんなに売れようがギャーギャー言われようが、そのことが嬉しいとかそのことに対して何かを思うとか、
それはないですね。こうした『現象』を、けっこう僕らって、冷静に見ているものなんですよねぇ。人気もセールスも、やがて落ちていくもの。今が、
『異常』なんだって考え方だって、できるかもしれない。今の僕らには、いろいろなものを着せられ、いろいろな宝石を身につけさせられている。
しかし、それよりも何よりも、自分が裸になったときの自分の姿は、自分自身が一番よく知っている。そんな自分を大切にしたい。その思いが今は
強いです。」〔単行本 【es】Mr.Children in 370DAYS〕彼が言いたかったことはつまり、「自分達が一所懸命やって評価されるのは嬉しい
ことだが、それについていろいろととりだたされることはよく思っていないし、考えたくもない。自分はただ20畳のステージという舞台の中のスター
であって、そのステージを降りれば誰とも変わらない生活を送っているわけで、結婚することや、まして不倫することなどは一般の人にとっては
変わらない出来事であって、それは僕らにとっても変わらないことだし、今はただそんな熱狂的に思われて、「あぁ、大きくなったんだなぁ。」と思う事
に喜びを得るよりも、自分達の音楽を納得の出来る形で皆さんにお聞かせして、それを聞いて「良い」と思ってもらうことのほうが僕達にとっては
大切なんです。」こう強いメッセージを含んだインタビューであった。だが、その思いも空しく一時代を築きあげてしまった彼らの出す音楽はいわば、
何かのブランド、一種のアイドルのようにもてはやされ、驚異的な売上を挙げていく。そして、桜井の詞が文学的な世界観をもっていた為に彼が
いう一言一言もまた些細なことであっても深読みされ、その事を週刊誌に叩かれたりして、桜井の神経はほとんどノイローゼに近い状況までに
落とされたのである。ファンによる益々の期待が彼らの音楽の励みになり数々の名曲を生み出したのは確かであるし、曲の名曲ともいえる芸術性
とブランド的な観念が、ちょうど中間点に位置し、互いを高め合うよい状況であったのも確かである。が、しかし、桜井が目標としていた「売れる」
「CD売上100万枚」というのは、その商業的な面ではなく、自分達自身の音楽の評価に直結するものだと考えていたが、実際は音楽の良し悪しで
はなく、宣伝し売り込むことによって成されるのがほとんどであり、(このことについては『光の射すほうへ』の歌詞の1節にかかれている)桜井は
その矛盾点に気づき始めていた。いや、彼だけではなくほとんどのトップアーティストは気づいていただろう。「確かにそのアーティスト自身
のセンスも必要だが、それ以上にただブランドのように売れていく僕達の音楽はなんなのだろうか?」自身が生み出した音楽が売れることと
評価されることとはまったくの同義ではなかったのだ。しかし、トップアーティストの宿命ともいえるヒット曲の増産を繰り返す中で、気持ちの整理が
つかぬまま彼らは日本の音楽シーンを突き進まざるを得なかった。そして、プライバシーを失い、マスコミに追いまわされ、ファンのミーハーに近い
熱狂的盛り上がりが追い討ちをかけ、桜井の精神はもはや疲労の極限に達していた。やること成すこと何もかもが注目されてきた桜井は
その現実の中で、皮肉なことに自分をそんな状況に落とし入れた一番の原因である音楽にその救いの道を求めるのだった。桜井はその時の
インタビューでそれを裏付ける言葉を残している。「僕の周りの様々なことがとりだたされている中、様々な思いが交錯するんですよ。それを
自分独りで抱え込んでいる状況だと、自分にとってものすごくヘヴィーな状況なんですよね。でも、詞を書いているときだけその状況から
救われるんです。詞を書くって事は、ある種物事を俯瞰に見ることだから、その俯瞰でいられる時が一番幸せなんだと最近では思いますね。」
〔雑誌 Rockin' on JAPAN〕お茶の間に人気が定着し、既に飽和しかけていた彼らの人気の中で、一石を投じるアルバム『深海』が発売される。
それは、インタビューそのままを表現する今までに悲しいメロディーであっても、癒されるメロディーでも、心を揺さぶるものがあれば、それでいいと
思っていた彼らの考えとは違い、一つのコンセプトを貫いた、いわば彼らなりの変革の姿勢が感じられるアルバムであり、そして今まで、自分達の
音楽の見せ方を戦略的に打ち出してきたMr.Childrenがはじめて素ともいえる部分を前面に大きく出した作品で、彼らの音楽の大きな分岐点と
なる作品に仕上がったのだった。彼らの音楽的姿勢を変えた精神の圧迫状態は、前もって予定として入っていた期間に解消されることになるの
だが、もし小林武史がその状況になることを見こんで、休みを取っていたとなれば、まさしく彼は名プロデューサーと言えるだろうし、また非情な
音楽業界の申し子と言えるであろう。(『JUDY AND MARY』も活動を休止していたが、彼女達もそんな理由からなのかもしれない。)桜井は
休みの間、今まで張り詰めていた糸を緩め、心身ともに休みを満喫する。活動休止に入ると、ほとんどのアーティストはメディアに忘れられることを
どこか不安に思うはずであるが、桜井の場合休んでいる間は本当にリラックスできて、プライバシーがなくなり、知られていることが苦痛であった彼
には忘れられていくことにはまったくの不安感を抱いていなかった。休止中は今まで疑問に思いながらもほったらかしにしておいたことに決着を
つけたり、自由にサーフィンをしたりする事で、音楽業界の枠にはめられたアーティストとして存在していた桜井が一人間としていったんリセットされ、
本来の姿である自然体に戻ることが出来たのだった。「この休みの間で音楽に対する変な気負いや、プロ意識がきえてとてもリラックスできて
良かったですね。「要するにサッカーやサーフィンするみたいに音楽をすりゃあいいんだ。」という、常にMr.Childrenが理詰めで音楽をやってきて
いたことで、妙に硬くなりすぎていた部分が消えたりして、いい休暇でしたよ。サーフィンも上手くなったし(笑)」〔雑誌 Rockin' on JAPAN〕
その台詞に象徴されるように、何をやるにしても、それをやる価値というのをどこかに存在させて、自分に言い聞かせてそれを演じるという事に
縛られていた桜井は作り上げられた「桜井和寿象」から自らを解放することが出来、自分がすべて背負い込んできた荷物をこの休暇中にすべて
整理をつけ、ニュートラルに戻った桜井は1998年10月にMr.Childrenとともに復活を果たす。彼らが休んでいる間、その空白を埋めるべく、
また彼らの持ちこんだ価値観を咀嚼するために、音楽業界は再び波乱の時代を迎える。その波乱に満ちた時代は、彼らが復活した今でも
おさまってはいない。まだ、音楽は成長段階にあるのだ。
《桜井和寿が表現したかったもの》
「もともとは愛情という感情がが欠落していて、愛されたいという気持ちから僕は始まったんだと思う。」〔雑誌Rockin' on JAPAN〕アルバム
『深海』リリース時のインタビューで桜井はこう話していた。日本の音楽シーンで活躍し、人気を得ても、それは本当にその作品が愛されているかと
いったら、それは違うのではないだろうか。事実、流行の一貫として片付ける人間のほうが多く、Mr.Childrenは本質的に愛されることが
少なかったのではないだろうか?彼らは世の中に上手く折り合いをつけるという意味で売れるということを他のバンドと比べてちゃんと考えてやって
きていた。自分達の音楽に素直にメッセージを託すのだけれども、その今伝えたい内容すら、小林武史と話し合いで決定される状況の中で素直に
音楽は楽しめていない状況に置かれながらも、曲は聴衆に好印象を与えていくという矛盾が生まれ、桜井の中に少しずつそれに対する疑問が
膨らみ始めていた。その矛盾が自分達の目標としていた「売れること」が実現したときに具現化し始める。Mr.Childrenの
4thアルバム『Atomic heart』。今までの彼らの音楽とは明らかに違う輝きを放っていた。今までは恋愛を表面的な感情を描き、その中に
センチメンタルにさせる優しげな曲が多かったのだが、まるで今までの彼らの音楽は遊びであったかのように、このアルバムはまったく違う輝きを
放っていた。このアルバムについてプロデューサーの小林武史は「今までの彼らの音楽は俯瞰的で表面的な感情をうたった曲が多かった。しかし、
今回はその感情を『恋愛』という言葉で終わらせないで、人間の感情というものを幾何学的で科学しながら考え、ひとつずつ組み立てていく事に
よって、作り上げられた、とても壮大なイメージを持ったアルバムになったと思います。」〔単行本 FANBOOK〕彼のいう通り、『Asia』にしても
『Round About』にしても今までのMr.Childrenには見えなかった、どこかリアルな感覚を感じさせる意味深なアルバムであった。特に
『Asia』の場合、このアルバムを携えてのコンサートツアーの命題と言わざるを得ないくらい、桜井は大きく意味を持たしていた。彼ではない限り、
何故そうしたのか確証はとれないものの、「ただ、自分達が生きているというリアルな感覚」を彼は表現したかったと思う。曲自体の内容は
「混沌とした世の中に悲劇的に生きている」感覚を歌っており、まさしくそれはバブルがはじけ、何もかも空虚に思えてならない、不安を抱えた社会
全体の気持ちを代弁した曲であるのだ。戦後50周年も近いことがあり、そんな時代に生きる自分達の生と死についての事や、『ジェラシー』に
おける、貪欲に人を愛する(?)感情、そして『Round About』に見られる世界の無常観、自分の中の混濁とした感情を、自分の道化の部分を
含め、すべてを曲に託したのではないだろうか。桜井は自分のすべての感情を音楽で表現する事によって、心の折り合いのつかない部分を
解消するつもりでいて、その中に人々の気持ちを代弁するためには自分の中に眠る感情を素直に歌に投影する事が必要であると気付いた
のであった。ある本では「ポップとはつくづく皮肉なものである。人々の心をつなぎとめる、そのテーマをさがすのが、すなわちポップなるものの
始まりのような気もする。でも、実はより個人へ、よりピュアに個人へと向かう事がその近道なのだ。」
〔単行本 【es】Mr.Children in 370DAYS〕とまさしくそれを表現する事が書かれている。しかし、より内に向かうという事は、裏を返せば、
支持されていく事と反して、出口のない道に入り、心の泥沼にはまり込んでいくような、世間との意識のギャップが生まれる原因にもなりうることで、
『ミスチル現象』の時期と重なり、精神的に極限まで追い詰めなければ曲が生まれない状況であった。が、しかし追い詰める事によって、その心の
中に点在する自分のよりピュアな感性が見つけ出され、その度に桜井は名曲とも言われるものを送り出しつづけてきた。「あいつはいつも
「スランプだースランプだー」って言ってるけど、そんな時に限ってめちゃくちゃ良い曲を作り上げる。あいつに本当のスランプなんてあるのかな?」
〔同上〕という鈴木の会話にもそれが汲み取れるはずである。そして、極限に追いこまれた状況下、演じる事が疲労に思えてきた彼は自分道化の
部分をとっぱらい、素の部分を強く出した5thアルバム『深海』の曲の中にその感情を託す。ピュアに物事をみつめ、それがたとえ綺麗事では
すまないとしても、それをただ表現する。それは、ポップという枠を超えたまさに、彼らの周り、つまりは音楽業界にとって問題作といわれる作品と
なった。「このアルバムは、なんていうんでしょう、今まで、小林さんと戦略的にMr.Childrenをどう見せていこうかって、そんな風にして自分達は
やってきたけど、もうそうやって僕らの売れる事に関して一種の飽和点までたどり着いてきていると思うんですよね。売れる事がよしとされる場合は
どうかわかりませんけど、人気を誇示するための作品、いわばチャートバイタリティのある、みんなが喜んでくれるアルバムなんてたかが
知れてますけど、今回はそんなものではなくて、ただ、この作品が今の音楽業界に一石を投じる作品になれば良いと思ってつくりました。」
〔雑誌 Rockin' on JAPAN〕桜井は、このインタビューの中で多くの業界の矛盾点を突いている。そのアーティスト個人より有能なプロデューサーの
腕のほうが売れる要素として見られている事、そして自分達も例外ではない事など実に確信のついた答えをバンバン答えている。「僕はもうこの世
の中に生きている上で、いろいろとダーティな部分とか見てきているわけで、その中で昔のように「夢をつかもう」とか「愛は素晴らしい」なんて歌える
わけないですよ。でも、やはり、自分の音楽を聞いてもらいたいんです。ですからその中で精一杯の前向きに歌うとしたら僕には「枯れないように
負けないように笑って咲く花になろう」としか言えなかった。『花』が出来た時に僕らが、明らかに日本の音楽シーンとあわない事をやっていることに
気付いて。でも、合わないからといってそれを出さずに違うのを作るかといったら、それはもう絶対に嫌だったんです。「今の自分の素直な気持ちを
歌って何が悪いんだー。」って思って。あとから聞いた話なんですけど、小林さんが一度僕らを小林さん抜きで「4人の状態にリセットしよう」
考えてたらしくって、たぶん小林さんも僕とMr.Childrenの今の状況に気付いていたんだと思う。今まで檻を作るように進む方向を強制していた
小林さんが、僕らを自由にひとつの方向に進ませてくれて、そこの面に関してはやりやすかったですね。」〔同上〕夢を歌う事や、純愛を歌う事は、
既に心の中のギャップに耐えられなくなっていた桜井。落ち込んでいく社会の中で歌うとなれば、絶望の中の希望しかなかった。桜井は、本当の
意味で今を鋭く切りぬいた歌に自分の苦悩を重ねながら『深海』の曲を歌いつづけるのであった。『名もなき詩』では、若者の中で「自分捜し症候群」
が流行し、演じている自分達も同じ思いを抱いているんだという共有感を持たせ、『花』では、夢や愛というものはもう簡単に追える物でもなくなって
いる、悲観的な世界観の中で自分が精一杯生きる事のできる姿を歌い、『マシンガンをぶっ放せ』では多くの抑圧の中でもがいている社会と自分の
姿を残酷なほど素直に歌い上げた。そして、主題曲であり、アルバムの最後を飾っている『深海』では、ただ、自分を救ってくれる何かを待つ、自分
が今まで歌ってきた事をひっくり返すようにもうどうしようも出来ない感情を他人に求めている自分を素直に表現し、このアルバムは幕を閉じている。
それは桜井自身が自分を見る上で俯瞰的な視点で自分に、社会に鋭く切りこみを入れた結果、生みだされたアルバムだった。B級の自己表現で
終わらせるなら、A級の商品を作り上げてやる。」という目標はもはや無意味に感じられた。『深海』というアルバムの中で、自分達が別の次元へと
進んでしまった事を示し、自分達が巻き起こした社会現象によって商業体系に様変わりした音楽業界の中で、Mr.Childrenはその業界全体を
否定するかのように、売れる事を一番としないアルバムを出した。ミュージシャンとしてではなく、アーティストとしての桜井がそこには存在した。
その後、休止直前に『BOLERO』を発表する。休暇はスケジュール的に決まっていた事なのだが、アルバム未収録である今までヒットした
A面シングルをカバーするという異常とも思える形で発表されたため、多くのあらぬ憶測を呼ぶ事になってしまい、一時期は「解散」とまでいわれる
ようになってしまった。しかし、何も明かさないまま、Mr.Childrenは活動休止に突入する。
《桜井の行く先》
休暇中にすべての事に整理をつけた桜井。そして、音楽を素直に楽しめる精神状態に戻った今、彼はどこに行こうとしているのだろう。売れる
以前に掲げていた目標は既に達成され,彼の目指す先は未だわからないままだ。だが、しかし、音楽に対する喜びが彼を後押しし、彼は前進
しつづけている。自分達が原因で姿を変えてしまった音楽業界をまるでその存在を否定するかのように、彼は違う次元で歌いつづけている。それは
「歌うべき人間」として、桜井の存在はそこにあった。Mr.Childrenは再び音楽業界をかえていくのであろうか?それは、これからの音楽に対する
私達の考えで決まるのではないだろうか。音楽そのものに意味を求めようとすれば、それは再び彼らの首を締めてしまうことになる。ただ、純粋に
彼らの、すべての音楽を楽しむ事が私達に出来る精一杯の彼らへの後押しだろう。私達は聴衆として、2度と彼らの精神を蝕んではならない。彼ら
の自然な姿を崩してはならない。それが私達に課せられた唯一の約束事である。
あとがき
今回はたまたま、Mr.Childrenを取り上げただけであって、実際のところは彼らだけでなく、多くのトップミュージシャンが、疑問を抱え今を生きて
います。自分達の人気が社会現象まで発展し、その中で苦悩し生きている姿を、個人的嗜好もありますが、ただそれだけ深く人間を問い詰める事
によって様々な考えが見えてくるのは、1時代を築き上げた彼らが一番良い材料と考えたからです。彼らの表面的な感情のその先には、一人の
個人として、その時代と戦う姿があった。私は時代の傍観者として、それを後追いで深く研究する事が出来たと思います。
一人でも多くの人がをミュージシャンをミュージシャンとしてではなく、一人の人間として少しでも見てくれることを私は願っています。
予定を大幅に縮小にしましたが、その方がシンプルにしあがってとても良かったです。
《参考文献》
・【es】Mr.Children in 370DAYS
・SWITCH
・BREaTH
・Rockin'on JAPAN
・多くのFANBOOK